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2024/08/22

【30年ぶりの両国国技館開催!】ストリートファイター競技シーン黎明期を知る二人の『スーパープレミアジャパン』にかける想いとは :プロデユーサー猿渡・アドバイザー影澤対談 前編

ーー本日はよろしくお願いします。

猿渡:総合プロデューサーの猿渡です。よろしくお願いします。

影澤:アドバイザーの影澤です。よろしくお願いします。

イベンターとコミュニティ、それぞれの雄がタッグを組むスーパープレミアジャパン

ーーまずはスーパープレミアジャパンにおけるお二人の役割からお聞きしたいと思います。猿渡さんは総合プロデューサーという役割ですが、どんな役割なのでしょうか?

猿渡:簡単に言うと、企画のコンセプトや人員、予算、スケジュールなど、大会を開催するために必要なものを取りまとめる役割です。

「どういう大会にしたいか」っていうことをまとめて、「どういう人にどれくらいの予算で任せるか」ということを決めます。今回は細かくスタッフを選ぶというより、ディレクターのような各部隊の責任者を任命しています。

ーー なるほど、大きな方向性やチームの組成を行っているんですね。影澤さんはアドバイザーという役割ですが、どんな役割でしょうか?

影澤:これまで対戦格闘ゲームの大会やFighters Crossoverなどのコミュニティを『かげっち』として主催してきた経験を活かして、JCGのコンセプトや設計に「こういったこともやりましょう」と提案していく役割です。

私は特定のメーカーやJCGに所属していないコミュニティの人間ですので、ファンやプレイヤーからの目線で企画やPRなどのアドバイスをするよう心がけています。

JCGは受託では大規模イベントの運営経験がいくつもありますが、主催という立場はあまり経験がないと聞いています。なのでその違いの部分、特に「もっと自分たちでやりたいことを決めていくんだ」という所をメンバーに常に伝えるようにしています。

ーー かなり広く見られているんですね。プレイヤー側に近いプロデューサー、というようなイメージでしょうか。

そうですね。カプコンさん、プレイヤーやファンの皆さん、JCGを繋ぐ役割ができればいいなと思っています。

猿渡 雅史:『ストリートファイターII』から対戦格闘ゲーム大会を見守ってきたイベンター

ーー 今回大役を担っているお二人ですが、これまでどんな活動をされてきたのでしょうか?

猿渡:僕がゲームイベントに関わり始めたのは、『ストリートファイターII』の全国大会を仕掛けたところからです。

当時はアーケードゲームの専門誌『ゲーメスト』という雑誌の編集者だったんです。1991年に『ストリートファイターII』がリリースされ、それまで人気だったファイナルファイトなどのベルトスクロールアクションゲームは違い、人と人の対戦がメッチャ面白かったんですね。

ーー 新しいジャンルとして確立される確信があったんですか?

猿渡:最初は、ひとりで遊ぶストーリーモードというか、CPU戦だけでも楽しめたんです。6ボタンという特殊性や多彩なキャラクターと必殺技など、それだけで十分に魅力的なゲームでした。しかし、編集部内で人と人の対人戦をやってみると、これが凄く熱く、すぐにポテンシャルに気づきました。

ただ、それまでのゲームセンターのゲームは一人遊びが基本。2人プレイでも協力プレイや交互プレイが中心で、対人戦はめったにありませんでした。これは「稼働してもCPU戦が中心で遊ばれて、対戦が流行らないかもしれない。それはもったない!」と思いました。

実際にゲームセンターで稼働している様子も、ひとりプレイが中心。当時は今ほど筐体が大きくなく、18インチモニターの筐体に、1枚のコンパネに2人用のレバーとボタンが付いています。そこに二人して横並びでプレイするのはあまりにも狭かった。だから、仲の良い友達とは対戦しても、知らない人が乱入するなんてありえません。

でも、対戦をしたいニーズはあるはずなので、これはカプコンさんと協力して大会を開くしかない。大会を開いて、「対人戦の魅力を広め、人と人の対戦こそこのゲームの魅力だということを打ち出していこう」と、ゲーメスト誌面で告知しました。

ーー 対戦格闘ゲームの遊び方を広めることが目的だったんですね。

猿渡:対戦が広がれば攻略情報を欲しがる人が増え、結果としてゲーム雑誌であるゲーメストの需要も上がるだろうという見込みもありました。当時はインターネットもトレーニングモードもありませんでしたから、情報は人から聞くか雑誌から得るしかないですからね。

そこで、2月に稼働が開始して、3月ごろには計画、8月には大会を実施するスピード感で、カプコンさんとゲーメストが共催でストリートファイターIIの全国大会を開くことになったんです。のちに様々な対戦格闘ゲームの大会を実施していく、『ゲーメスト杯』の記念すべき第一回ですね。

当初の予定では「128人エントリーがあればいいか」と思っていたんですが、毎日のようにゲームセンターでの盛り上がりを実感していると、256人トーナメントがいけるんじゃないかとか思えるようになり、最後は512人のトーナメントで開催することになります。誌面で出場者を募集するんですが、1000通以上は応募はあったと思います。ですので、選手だけじゃなく、ギャラリー参加も受け付け、会場も池袋のサンシャインワールドインポートマートで実施するに至ったんです。

ーー まったく新しいゲームなのに凄い反応ですね。猿渡さんはその大会でスタッフをされたんですか?

猿渡:大会の設計は編集部とカプコンさんの合同で決めましたが、あとはほとんど自分がディレクションしました。全体のタイムテーブルはもとより、筐体から映像や音声を引っ張ってきて、どうやってスクリーンに出したり、スイッチングしたりするのか……って技術ディレクション、会場レイアウトなど、ほぼすべてかな。あと、ゲーム大会に「実況」と「解説」を入れて、会場に音声をながしちゃう、ってスタイルもここが初かもしれませんね。なのでカプコンさんも驚いてましたね。「なんで編集者なのに、イベントのプランニングや演出ができるんですか!」って。

当時、ゲームのイベントらしいイベントもありませんでしたし、アーケードゲームの大会は皆無。しかも対戦格闘ゲームの全国大会なんて、参考にできる大会はこの世にありません。なので、完全に手探りでした。でも、もともとアマチュアバンドで自主コンサートを開催したり、イベント運営会社でのバイト経験もあり、大小さまざまなイベントの裏側は見てたんです。

だから、大会の完成形のイメージはできてたんです。その後は雑誌編集をしながら、ゲーメスト杯のディレクターやプロデューサーとしてイベント業務にも携わっていました。

1991年から『ストリートファイターII』のシリーズをはじめとして、様々な対戦格闘ゲームの大会を実施してきたこともあり、1993年に実施されるカプコン主催の『ストリートファイターII TURBO』の国技館大会開催でも、大会アドバイスをさせて頂いたりしてました。

ところが、1999年の9月にゲーメストが廃刊になるんです。それでゲーメストの編集者をまるごとアスキー(後のエンターブレイン、現KADOKAWA)に移籍させて『アルカディア』という雑誌を立ち上げたんです。

ーー ゲーメストの後継的な雑誌ができるんですね。

猿渡:2000年初頭は、創刊したての雑誌ということもあり、しばらくは雑誌の売り上げを安定させよう、という方針で動いていました。ですので、しばらくは大会のようなイベントはできませんでした。

ただ、1999年から2000年にかけて、ゲームセンター人気が一気に落ち着いてしまって、全国のゲームセンターが閉店し始めたんです。メーカーもアーケードゲームからの撤退をほのめかすようなこともあったんです。対戦格闘ゲームも元気のよいシリーズ物がしばらく出ないという状況で、これはヤバいぞという雰囲気がありました。

ーー インターネットが普及し始めた時期ですね……。その雰囲気を払拭するために”闘劇”の開催を企画したんですか?

猿渡:雰囲気を払拭……なんて軽い話ではないです。ゲームセンターが潰れ、新作ゲームが出なかったら、情報誌としても死活問題です。ですから、全国のゲームセンターの動員を増やすために、大規模なゲーム大会を開催し、プレイの目標を持って貰う。そして目標に向かって日々練習することでインカムに貢献してもらう。そのためには、1種類や2種類のゲームでなく、様々なタイトルを同時に実施する必要があると考えました。

そして全国大会の予選実施会場や地区大会会場として、全国のゲームセンターを使うことで、ゲームセンターが情報発信場所になるなど、シーンの盛り上げの一翼を担って貰う。そういうコンセプトの元『闘劇』を企画し、2003年からスタートさせました。

ーー 闘劇といえば全国各地のゲームセンターで予選を行い、店舗代表として関東の決勝大会に送り出す形式の大会ですね。2003年から2012年まで10回ほど開催していますよね。

猿渡:当初は「新作が出なくても、旧作だけでも盛り上げられる大会」として考えていました。旧作のほうが投資回収が済んでいるので、利益効率としては良いんです。生々しい話、そこで蓄えたお金で新作を買ってもらえれば、良い循環になる。でも闘劇が始まる頃から、シリーズものの復活や新世代の対戦格闘が出始めて、2000年代でブームが再興するに至ったんですね。

その頃、対戦格闘ゲームを始めたプレイヤーや、大会で名を馳せた選手が今のプロシーンの源流だったりもしますね。

ーー 格闘ゲームが好きな人が集まって全国大会を開催していたんですね。同じ会場でいろんなタイトルがあると、交流も生まれそうですね。

影澤:いや、正直最初は交流という感じはなかったですね。みんな自分がやってるゲームが最高だと思ってましたから。でも決勝会場には予選を勝ち抜いた代表が集まっているわけですから、とんでもない試合を目の前にしてみんなリスペクトとライバル心に駆られるんです。格ゲーマーなんで。

ーー違うゲームでも負けたくはないのですね。

影澤:仲が悪いわけではなく、俺とお前のどっちが強いんだ?ってことなんですよね。そういった強い思いがタイトルを超えたコミュニティを作っていった感じですね。

当時は公式大会があったとしても少なかったので、年に1回の闘劇を目標に生きていたといっても過言ではなかったですね。

猿渡:当時はゲームセンターが練習や情報交換の中心地でしたし、店舗予選はその店舗の代表選手を決めることになります。ですから、団体戦ではチーム名に店舗名を入れるほど”背負って”きているチームも居ました。

ただ、闘劇の店舗予選では様々な店舗大会への出場が可能なので、負けても何度もチャレンジできたんですが、決勝大会はシングルエリミネーションだったんです。ですから、負けるときはあっという間なんです。1年頑張ってきてチャンスは1回だけ。来年は自分がやってるゲームタイトルが採用されるかわからない。それだけに皆「負けたくない」という気持ちで臨んでくれた気がします。

ーー 闘劇の10年間の歴史の中で、お互いが高めあい熱狂しながら格闘ゲームコミュニティが混ざりあって醸成されていったんですね。

猿渡:その後、僕はエンターブレインを退職してしばらくフリーで活動していました。秋葉原のe-sports SQUARE(イースポーツスクエア)でブッキングマネージャーや技術指導をやったり、色々な経験を経て2018年にJCGに入社しました。JCGでは制作や技術などいろいろな形でイベントと関わり現在に至ります。

ーー 対戦格闘ゲームの大会を本当に初期から制作・運営されているんですね。

影澤 潤一:コロナ禍を越えて全国に輪を広げるコミュニティリーダー

ーー 影澤さんはどんな活動をされているんでしょうか。

影澤:僕はもともとプレイヤーでずっとゲームセンターに入り浸ってました。それこそ高校生のときにゲーメスト杯の『ストリートファイターIII』大会に参加したのが今の活動の原点みたいな感じです。

大学生になってからは、プレイするかたわらネット上で攻略や交流をする場として掲示板やチャットを運営したり、ときどきゲームセンターで大会を開いたりしていたところ、松田さんに猿渡さんを紹介していただいて闘劇のスタッフとして大規模な大会運営を経験することになりました。

ーー 影澤さんはゲームイベント実況者の草分け的存在として、闘劇や公式大会の実況などもされていましたよね。

影澤:闘劇は猿渡さん指揮のもと、実況と解説というポジションが明確に分かれていて、実況は場を盛り上げ解説が詳しくフォローするスタンスでした。当時の公式大会でもそのスタンスは継承されましたが、闘劇はみんなそうとう自由な実況をさせてもらってましたね(笑)

そんな他のタイトルの実況解説陣との交流はすごく刺激的で、様々な名言(迷言)も生まれました。

ーー 試合の実況で使われる「いろいろあった~!」という定型文は、影澤さんのフレーズと媒体によっては書いてあったりしますが本当ですか?

影澤:いや、ちがいます(笑)このフレーズは某タイトルで展開が早すぎて実況しきれないときに言われた名言ですよね。確かに、展開重視の試合のときにあまりに使い勝手が良すぎて自分も結構使いました。あまりに試合が硬直しすぎて言うことがなくてステージ背景の「自転車が通る」って言ったことはあります(笑)

そんな感じで一時期は実況がメインのこともありましたが、闘劇ではそれこそ進行や審判、筐体係など色々なポジションをやらせてもらった経験が、今の大会・イベント運営にも活きていると思っています。

ーー闘劇の後はどのような活動をされていたんでしょうか。

影澤:2010年から『ストリートファイターIV』シリーズで『STARTING OVER』という大会を新宿西口のゲームセンターを借りて主催していたのですが、その大会を大きくしました。

というのも、闘劇がお休みして目標となる大型大会が無くなってしまったんです。TOPANGAチャリティーカップのような年1回の大会はあったものの、全体数では一時期よりかなり少なくなりました。そこで、せっかく闘劇や公式大会で知り合った人たちが目標や実績にできる大会に『STARTING OVER』はしようと、ちょっと頑張った感じですね。

『ストリートファイターV』が出た2016年からは、今のイベントの基になる『Fighter’s Crossover -AKIBA-』を秋葉原のe-sports SQUAREで始めました。当時『ストリートファイターV』は家庭用でしかなかったので、ゲーセンで人生の大半を過ごした自分としてはどこでゲームすればいいのかわかんなくて、それで「あ、じゃあゲーセンみたいな環境作っちゃおう」ってノリと勢いで始めた感じです。

その後、何度目かのeスポーツ元年がきたり、カプコンプロツアーが本格的に始まったり、大会やイベント運営が仕事としてくるようになったりとまさに右肩上がりの状況でしたが、2020年に一変することになります。

ーー コロナによる緊急事態宣言ですね。

影澤:そうです。

ありとあらゆるオフラインイベントが中止になり、カプコンカップも開催が見送られるなど、本当に辛い3年間でした。

ーー オンラインに活動の場を移されたりしたんでしょうか?

影澤:もちろん試しにオンラインでの大会開催などもやってみましたが、自分の中で楽しさを見いだせなかったんですよね。「これなら俺がやんなくてもいいじゃん」って。ちょうどその頃仕事やPTAなどが忙しすぎたので、一旦はそちらに専念することにしました。

ーー そしてついに『ストリートファイター6』発売。対戦会である『Fighters Crossover』をあらためて始められたんですね。

影澤:やっぱりね、オフラインで対戦会をやりたかったんですよ。

ただ、いくら新型コロナが5類になったとはいえ、3年間オフラインイベントがなかったわけで、新作でオフラインのニーズが有るのかどうか凄く不安でした。でも、いざやってみたら沢山の人に参加していただいて、思った以上に広がって、正直びっくりしてます。

ーー 『Fighters Crossover』は今や全国で定期的に開催されるほどに盛り上がっていますね!お二人とも、ストリートファイターに昔から関わってらっしゃるんですね。

終わりに

今回は前編として、猿渡プロデューサーと、影澤アドバイザーの経歴についてご紹介しました。

次回は後編、「”ストリートファイター6”の盛り上がりと”スーパープレミアジャパン”に賭ける想い」として、大会シーン初期から見守ってきたお二人が感じる『ストリートファイター6』、そしてスーパープレミアジャパンについてをお聞きします。

世界中から『ストリートファイター6』プレイヤーが集まるスーパープレミア大会『京王 Presents JCG STREET FIGHTER 6 CAPCOM Pro Tour 2024 SUPER PREMIER JAPAN』は11月2日(土)から11月3日(日・祝)の2日間にわたって武蔵野の森総合スポーツプラザで開催されます。

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